※本記事は作品の内容に触れます※
タイトルの言葉遊び
(=作品テーマ?)は蜃気楼だった。
発売前の予想(↓)が
当たったので嬉しい。
ただ、
ボクの想像した蜃気楼は
被害妄想(=無いものを見ること)
が原因の殺人だったから
完全正解とは言えず、
あまりしてやったり感はない。
でも
こうやってブログを介して
ネットという虚空に向かって
予想が(一応)当たったことを
自慢できるっていうのは、
これまでみたいに
自分の中で完結させるよりは
精神衛生上とても
いいことのような気がする。
はじめに:255字感想
伏線(?)が回収されたようでされてない感じ&キャラの会話、によるリアリティが相変わらず好き。
表題の言葉遊びは蜃気楼、対象の景色は雪上の出血死体、本来の場所は〇〇〇の周辺だけど、それが錯覚により〇〇の周辺に見えていた、ってとこかな?
余談でわざとらしく逃げ水って言葉が出てきたのも何か意味があったり?
◆わざわざわかりやすくするから歪んでく
◆当たり障りのない言葉ほど定型になり、出しやすくなる
◆一番有効な圧力は沈黙
◆憎いというのは相手が正常で信頼できる場合の感情
◆周りの状況がそう見せている
◆印象で捉えるから錯覚する
なにがどう蜃気楼なのか?見えた情景は?
蜃気楼とは
“存在するものが別の場所に見える”
という現象のこと。
それを踏まえると
本書における蜃気楼は、
- 存在するもの:雪上の流血死体
- 実際あった場所:沙保里の周辺
- あると錯覚した場所:恵吾の周辺
ってことだと理解した。
余談だけど、こう考えると
“存在しないものを存在していると錯覚する”
っていう冒頭のボクの予想は
そもそも蜃気楼ではなかったな、と。
あと
本作の中盤で
ストーリーの本筋とは
関係なさそうなところで
あからさまに
“逃げ水”という表現が出てきて、
これも蜃気楼を
思わせる表現だけど、
これはいったい
何だったんだろう?
蜃気楼という
言葉を思い浮かばせるための
ヒントかな?
冒頭の殺人事件の真相は?
※初読時の感想※
作中で
言及されていない謎に、
冒頭の殺人事件の真相が
挙げられる(と思っている)。
それについて
考えようとすると、
判断材料は
エピローグで出てくる情報を
考慮すると
- 死体周辺の足跡描写は真か偽か?
- 事件発生時の沙保里の年齢は12歳か否か?
あたりになってくると
思うんだけど、
プロローグはそもそも
一人称視点であるため
実際の出来事と描写内容が
違っている可能性があるし、
エピローグの会話内容は
敢えて”真実とは限らない”
かのような
台詞回しにされている。
よって
これらの真偽については
どれも作中で確実なことは
述べられていない。
つまり
割とどうにでも
想像することができてしまう。
なんか
不完全燃焼感があるけど、
これこそが
一般的なミステリィとの違いであり、
森博嗣作品の魅力であると思う。
なお、
ボクが考える
冒頭の殺人事件の真相は後述。
森博嗣作品の魅力=リアリティ
「不完全燃焼感が魅力」とは
どういうことかというと、
フィクションとしての
わざとらしさが目立たないので
リアリティがあり、
そこに魅力を感じる
ということ。
よくあるミステリィでは
事件と関係ある記述が
過不足なく提供され、
それらすべてについて
「あの時の記述は
実はこういうことだったんだ」
みたいな
伏線回収がされたうえで
事件が解決されたり、
死体を見つけた女性が
悲鳴をあげたり、
といった
わざとらしさがある。
これらには
わかりやすいという
メリットがあるんだけど、
少なくともボクには
なんというか
子供の学芸会とかお遊戯会
みたいな稚拙さ(?)を
感じてしまうので、
どちらかと言うとこれらは
作品評価を落とす要素に
なってしまう。
以下、
伏線回収による事件解決と
悲鳴のわざとらしさ、
リアリティについて述べる。
解決されない謎が残る(視点的?リアリティ)
当たり前だけど
現実では神の視点に
立つことはできないので、
疑問に思ったことが
全て解決されるわけじゃないし、
解決された問題に対して
伏線的な現象を
観察できることなんか滅多にない。
それを念頭に置いたうえで
本作を見ると、
ボクの読解力では
プロローグ冒頭で起きた
事件の内容と
それについてエピローグで
言及している内容は
完全には整合がとれず、
プロローグ冒頭の事件は
作中で明確な回答は
提示されなかった。
こういう
つながってるようで
つながってない、
でもやっぱりなんか
つながって見える、
みたいな描写に
すごいリアリティを感じる。
もちろん
ボクの読解力不足で
実際は
エピローグがプロローグの
答え合わせなっていて
過不足なく
謎が解けているのかも
しれないけど、
ボクには謎が解けなかったし、
ボクにとっては
綺麗に謎が解けないことが
リアリティであり、
そのリアリティを
森博嗣作品の中に見た、
ということ。
悲鳴を上げない(行動的リアリティ)
リアルでは
謎は全て解かれない、
伏線が全回収されないのが
当たり前なのは
前述の通り
全員が納得するところだと
思うけど、
悲鳴をあげる人については
一概にそうとは言えないかも。
というのは、
ひょっとしたら
幼少期にフィクションから
リアルを逆輸入したせいで、
悲鳴をあげることがリアルだ
という認識の人も
いるかもしれないから。
恋愛観とかもフィクションからの
逆輸入してる人、いると思います
でも
ボクにとってのリアルは
悲鳴なんか
滅多にあげるものじゃないから、
やっぱり
森博嗣作品にリアリティを感じる。
フィクションの中にリアリティを生み出す手法?
さっきから
リアリティリアリティと
書いているけど、
小説っていうのは
フィクションであり
リアルではない。
つまり
リアリティのある小説
っていうのは
初めから矛盾を孕んでいる。
そこを作者の技術で
どうにかするんだけど、
森博嗣の場合
それをどうやって
クリアしているのか、
ちょっと言語化を試みる。
結論は
- 本筋外の嘘や誤解、勘違いが存在し、訂正されない
- 全ての疑問が解消されることはない
- 現実の社会情勢ネタの本質に”少し”触れる
- 共感できるあるあるネタを散りばめる
あたりかなぁ、と。
以下、
本書における例を挙げていく。
本筋外の嘘や誤解、勘違いが存在し、訂正されない
小川「私、全然知らなかった。この方面、暗いから」
加部谷 「ダークですよ、きっと。知りませんけれど」
“暗い”について、
小川は”疎い”という意味で使い、
加部谷は芸能界の”闇”という意味で捉えた。
とボクは読み取った。
こういう認識のズレに触れずに
会話が進むところに
リアリティがあると思う。
なにもかも見たまま、聞いたままを真に受けるわけにはいかない、と小川は思った
上述の通り、
これを作中に取り入れることが
リアリティを生じさせる
肝なのかな、と。
全ての疑問が解消されることはない
これについては
一部抜粋では例を提示できない。
前述の通り、
プロローグ冒頭の
殺人事件の真相については
作中で明確な回答は
提示されていない。
とボクは読み取った。
そして
解決されない問題があること
はとても現実に即している。
というか
提示されたすべての謎が解決されてしまうのは
現実に反していてリアリティがない
現実の社会情勢ネタの本質に”少し”触れる
雨宮「LGBTとかもよぅ、男と女を区別してるから出てくる問題なわけで、最初からな、男も女もやめて、戸籍にも書かなええが、小さいときから区別せんときゃええだろが。ほれ、犬とか猫とか、わからんだろ、見た感じで雄も雌も同じだぎゃあ」
加部谷 「そうだね。人間も、わからない人、増えてる。わざわざわかりやすくしているから、 歪んでくるんだ」
さらっと
時事ネタを噛ませてくることで、
フィクションなんだけど
現在の現実世界の出来事だと
認識させる効果があるんだろうな、
と思う。
このとき、
話の本筋外で少しだけ
さらっと触れるのが
いいのかな、と。
本筋に絡んできたり
がっつり触れたりすると
今度は逆に作品世界から離れて
現実の方に引っ張られちゃう
気がするから。
共感できるあるあるネタを散りばめる
時間が過ぎていくのを待つ。そんな手法が唯一の選択肢だった
何でもかんでも
すぐにフィードバックが
欲しくなりがちだけど、
待つっていうのは大事。
口に出して主張すると、絶対に誤解される。きっと、 妬んでいるとか、 僻まないように、と言われてしまう。まったく面白くない。
作中では
何でもかんでも
若い方が良いというわけではない
という文脈で使われている。
ボクは
薄毛はハゲとは違う
という文脈で
同じ思いを感じたことがある。
多くは語るまい
冒頭の殺人事件、ボクなりの解釈
最後に余談として
冒頭の殺人事件に関する
初読時点のボクの解釈をば。
それは、
プロローグ冒頭の
雪上流血死体を作った犯人は恵吾。
幼少時の沙保里は
その殺人現場を目撃しており、
沙保里の心に雪上流血死体が
深く刻み込まれた。
↓
時が経ち、
ひょんなことから
沙保里は恵吾と再会。
当時の殺人事件のことを
持ち出すことで(脅迫?)、
恵吾は沙保里の言いなりになる。
という背景があった、
というもの。
こう考えると
少なくとも
初読後のボクの心はスッキリした。
再読することで
この解釈に
矛盾が生じるであろうことは
想像に難くないけど。
まとめ
- 情景の殺人者を読んだ
- テーマは蜃気楼で、予想が(半分)当たった
- すっごい面白かった
- 森博嗣作品の魅力はリアリティにある
- フィクションで読者にリアリティを与えるための4要素を考えてみた
それでは~
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