「なぜ働いていると本が読めなくなるのか」
を読んで感じたモヤモヤが収まらないので、
もう少し考えてみた。
前回の記事はAIに書かせちゃったこともあって消化不良なので
その結果、
自分を納得させることのできる
結論が出たので、
経緯含めここに記録しておく。
なお、
以下の内容は大別すると
「妄想」に分類されるであろうことを
最初に宣言しておく。
一般論ではない「個人の感想です」ってやつ
一応強調しておくと、
「なぜ働いていると~」は、
ボクの妄想を展開するための一つのきっかけにすぎず、
この本には別の読み方も別の評価も当然あり得るということ。
…予防線、ヨシ!


結論:読者と前提を共有できていないからモヤモヤする
長くなったので結論を一言で。
「なぜ働いていると~」に対して
ボクがモヤモヤする原因は
本書が読者と
前提を共有していないから
である。
前提を共有しないと
どうしてモヤるかというと、
以下の通り↓。
「なぜ働いていると~」は、
「この本では何をどう述べていくか」
という前提が明示されていない。
そのため、
- データから結論を客観的に導こうとしているのか
- データを著者の主観の補強に使っているだけなのか
どちらかはっきりしないので、
まずそこにモヤモヤする。
また、
前提が共有されていないがゆえに
各自が好きに解釈するので、
本を読んだ感想として
- ある人は「知的な本だった」となり、
- ある人(ボク)は「感想文じゃん」となる。
そういった
噛み合わない感想を見て、
さらにモヤモヤが増幅する。
加えて、
タイトルと内容にズレがあることで
俺のモヤモヤが有頂天。
タイトルには暗に
本全体の前提を伝える機能があるので、
そこがズレているということは
ここでも
「前提共有ができていない」と言える。
以上を一言でいうと、
ボクがモヤモヤする原因は
本書が読者と
前提を共有していないから
となる。
余談として、
おそらくこれらのモヤモヤは
売るためにわざと設計されたものなので、
モヤモヤしてストレスをためるのではなく、
「資本主義ってこういうもんだ」と
ラベリングして処理してしまうのが
精神衛生上健全だと思う。
なお、
モヤモヤの原因の別の表現として
「”錯覚させる感”の有無」
という結論も得たけど、
それについては本文で。
以上、おしまい。
以下、
結論に至った経緯と余談。
「なぜ働いていると~」と「22世紀の民主主義」の共通点
「なぜ働いていると~」(以下、三宅本)
に対してモヤモヤする理由を
考えていたときに思い浮かんだのが、
「22世紀の民主主義」(以下、成田本)。
これらの本はどちらも
表面的な構図が
- 社会現象っぽいものを取り上げる
- ときどきデータや研究っぽい話を出す
- そこから著者自身の主張を展開する
という点が共通している(と思う)。
にもかかわらず、
- 三宅本にはモヤモヤし、
- 成田本はスッキリ読める
という違いがある。
この差は
好みとか思想の違い
以前の問題だと思うので、
そこを考えていく。
三宅本と成田本の相違点
三宅本が引っかかる理由
まず、
ざっくりとボクが
三宅本に感じたことを挙げると、
- データを主観の補強に使っている
(=客観性が弱い) - 論理展開が曖昧
- 上っ面は分析、知的考察っぽい
って感じ。
一言で雑に表現すると、
学問の皮をかぶった感想文
となる。
成田本が腑に落ちる理由
一方で
成田本に対して感じたことは、
- 予想、妄想だと宣言している
- データ(現状)から主張を導いている
- 論理展開が明確
って感じ。
こちらも一言で雑にいうと、
筋の通った(自称)感想文
となる。
成田本は前提からの論理展開がある
筋の通った(自称)感想文である
成田本では、終始
前提Aを置く
↓
Aが成り立つならB
↓
BならCじゃない?
みたいに話が流れていくので、
「Aはおかしい」
「BからCへの飛躍が雑」
「たしかにCしかなくね?」
みたいに議論ができる。
三宅本にはそれらがない
一方、
学問の皮をかぶった感想文
である三宅本には、
そういう論理展開が存在しない。
ようにボクは読めた
なので読んでも
「なるほどね」
「あなたはそう思うんだね」
としかならない。
いや、別に
三宅本が感想文であること自体は
何も問題ないんだけど、
それが論理的っぽい文章で書かれていて
議論ができそうに見えてしまうことは
問題だと思う。
論理的文章には前提の共有が必須
成田本には前提と論理展開があり、
三宅本にはそれらが無い(ようにボクには見える)。
両者の対比から
ボクが三宅本に感じるモヤモヤは、
土俵にすら立っていないのに
知的勝負を装っているように見える
という点だということが分かる。
言い換えると、
感想文なのに感想文だと名乗っていない
(=読者と前提を共有していない)点
にあると思う。
これで
三宅本の内容に対するモヤモヤは
言語化できた気がする。
「議論以前」の文章が売れているという違和感
三宅本に対するモヤモヤは
本の内容以外にもある。
それは、
そんな三宅本が売れているということ。
三宅本が
感想文と認識された上で
売れているなら納得できるんだけど、
もし
知的な文章として
認識されているのなら、
正直ちょっと健全ではないと思う。
自分のことを
完全に棚に上げて言うなら、
「日本の未来、大丈夫?」
と思ってしまう。
そう思うのは別に
三宅本の内容が浅いからではなく、
ボクと著者の
価値観が合わないからでもない。
そうではなく、
(前提共有がなくて)議論不能な文章が
知的コンテンツとして消費されている
という状況に対して
ある種の危機感を覚えてしまう
ということ。
ホント「お前は何様だ」って
我ながら思うんだけど、
- 読解力の低下
- 学問と感想文の区別の崩壊
- 「雰囲気で納得する」文化の加速
への不安って感じ。
※なお冒頭で宣言した通り、
本の読み方は人によって異なり、
ボクが極端な読み方をしているだけかもしれない※
補助線としてのなろう系
「日本大丈夫か?」で
ボクが連想したのが「なろう系」。
ここで言う「なろう系」とは
- 他責的
- 受動的
- 世界・他人・環境が主人公を全肯定
- 努力しなくても正当化される世界
といった要素が共通する物語群のこと。
で、
このような本に人気があることに対して
ボクは「日本大丈夫か?」と思う次第。
その理由は端折るけど、なんとなく察してもらえれば幸い
ただ、
同じ「日本大丈夫か?」なんだけど、
ボクは
- 三宅本に対してはモヤモヤするけど
- なろう系に対してはモヤモヤしない。
この違いは何だろう?
なろう系と三宅本、成田本の違い
一番の違いはやっぱり
- なろう系はフィクション
- 三宅本はノンフィクション
という点。
なろう系は
- フィクションと明示されている
- 読者も当然それを承知している
のに対して、
三宅本は
- 現実の社会現象を扱う
- でも分析なのか感想なのかが曖昧
- 読者は「これは現実の説明だ」と誤認しうる
ってことなんじゃないかな?
この観点で成田本を評価すると、
- 現実の社会現象を扱う
- 妄想、予想であることを明示している
(=読者は誤認しない)
と言える。
…あ、
なんか見えてきたかも。
モヤる原因は、「錯覚させる感(≒ビジネス臭)」の有無(多寡)
つまり、
ボクがモヤモヤするかしないかの
判断基準は、
読者が誤認し得るかどうか?
ということ。
言い換えると、
意図的かどうかは棚上げして、
読者を騙す成分が含まれるか?
ということ。
ここで
ボクがタイトル詐欺にモヤる理由とも
つながった。
たぶん言ってなかったけど、
本書はボク的にはタイトル詐欺認定作品。
騙す成分と言えばビジネス。
三宅本が売れている理由には
この辺のことも
絡んでいる気がするけど、
そろそろ記事を締めたいので
これ以上は言及しないことにする。
「誤認」や「騙す」だと言葉が強い気がしたので、
以降は「錯覚させる」と表記することにする。
表でまとめる
以上のことを表でまとめると、
こうなる↓。
| 三宅本 | 成田本 | なろう系 | |
|---|---|---|---|
| 扱う対象 | 現実 | 現実 | フィクション |
| 前提の提示 | ない | ある | 不要(自明) |
| 読者との前提共有 | ない | ある | ある |
| 内容 | 感想・印象論 | 論理的展開 | 願望充足 |
| 話の筋 | 見えない | 見える | 不要 |
| 議論になるか (その種類) | ならない (議論以前) | なる (反論・検討) | なる (解釈・評価) |
| 日本大丈夫か?感 | ある | ない | ある |
| 読者に錯覚させる感 | ある | ない | ない |
| ボクがモヤるかどうか | モヤる | モヤらない | モヤらない |
ボクが
本に対してモヤモヤするか?
という観点で見ると、
- 三宅本 → モヤる
- 成田本 → モヤらない
- なろう系 → モヤらない
であり、
三宅本と成田本は
どちらも現実を扱っているけど、
三宅本は前提提示がないので
終始ふわっとしており、
最悪読者は
感想を事実と錯覚しかねない。
成田本は前提提示があるから錯覚は(少)ない
三宅本となろう系は、
この種の本が売れていて
「日本大丈夫か?」と思う点は
共通しているけど、
なろう系はフィクションであることが
わかりきっているので
読者が現実と錯覚することはない。
つまり、
「読者を錯覚させてる感」の有無が、
ボクがモヤモヤするかしないかの
判定基準なのだと整理することができた。
すっきりした!
満足満足。
まとめ
詳しくは
冒頭の「結論」で述べた通りなんだけど、
改めて箇条書きでまとめると
- 「なぜ働いていると~」にモヤる原因を考えた
- 他著、他ジャンル本との共通点、相違点から整理した
- 読者に錯覚させる成分が多いことが原因だと判明した
- 具体的には、読者と前提の共有ができていないことが原因
- 一方、ビジネスには錯覚させることがつきもの
- イライラせず「そういうもん」として処理するのが健全
って感じ。
最後に。
本記事が(本記事の定義による)
三宅本、成田本、なろう系の
どれに属するかというと、
いうまでもなく
「三宅本」に属する、
論理展開の甘い感想文である。
以下余談。
余談①:本書がノイズメーカーになり得ることへの言及はない
「前提を共有せずに出てくる情報」
というのは
本書(なぜ働いていると~)の
言葉を借りるなら「ノイズ」であり、
本書の趣旨は
「働いていると本が読めなくなるのは
ノイズを受け入れる余裕が無いから」
「余裕を持てる社会がいいよね」
という内容である。
にもかかわらず、
本書自体が読者にとっての
ノイズになる可能性についての
言及は見られなかった。
せっかく
本書自体が本書の主張の一部
(=ノイズになりうること)を
体現しているように読めるのに、
それに触れないのは
少しもったいない気がする。
もしかすると
「働くこと」という文脈から
離れすぎないために
敢えて触れないという
判断なのかもしれない。
ただ、
そうだとするとそれはそれで
「ノイズを避けた」とも読めてしまい、
既に本書が
ノイズを体現しているように見える点と
噛み合わない気もする。
……もう考えるのをやめよう(笑)
余談②:三宅氏の新作も読むつもり
なお、
ボクは三宅氏の新作である
『「好き」を言語化する技術』を
図書館で予約済み。
予約数が3桁でビックリ
目的は、
本記事述べてきたことが
新刊も同じかどうかを確認すること。
昔
森博嗣の短編集の解説で、
冨樫義博が
「その作家のことが
苦手であることを再確認するために
その作家の新刊?を読むことがある」
みたいなことを言っていた記憶がある。
そのときは
彼が何を言ってるのか
理解できなかったんだけど、
「自分の価値観や考えの確認のために
好きでもない作家の本を読む」
という行為の需要?を
今回の件で実感した次第。
ボクもうこれ、
三宅香帆のファンだな?(笑)
以上、
それでは~
たくさん考えさせてくれる、いい本だった↓
論理的な文章に皮肉のスパイスが効いてて大好き↓
予想通りならハンター冥利だし、予想外でもそれはそれで面白い。つまり読み得↓






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