一人暮らしの管理人の
出費の記録と、
それに伴う日記みたいなもの。
【出費】卵【221円】

| 商品名 | 価格(円) | 分類 |
|---|---|---|
| イサシサンギョウオトクヨウファミリーパッ | 221 | 主菜 |
| 割引 | -25 | – |
| 合計(含消費税&割引) | 221 |
森博嗣成分を大量摂取
ブックマークに登録していても、
ルーチンから外れてしまうと
全然チェックしなくなる
ということがあると思う。
ボクは森博嗣の
「日常のフローチャート」という
ウェブエッセイのページを
ブックマークしていたんだけど、
連載終了&書籍化に伴い
チェックしなくなっていた。
それが
この日どういうわけか
このページにアクセスしたら、
いつのまにか
「道草の道標」という
新連載をしていることを発見。
その連載が
8回分溜まっていたので、
一気読みした。
いつもの森博嗣でとても良かった。
ボクが変わった?著者が変わった?
ただ、
文章の森博嗣成分が
薄れている印象を受けた。
これは
ボクが森博嗣の抽象化された文章を
読み慣れてしまったことが原因なのか、
それとも
森博嗣が敢えて
特徴を薄めて書いているのか。
どっちたろう?
著者の旧作を
読み直せばどちらが優勢かが
ある程度はっきりするだろうけど、
そこまでするようなことでもないかな。
たぶんだけど、
著者が書き方を変えた気がする。
完全引退に向けて
文章から個性を消して綺麗に
フェードアウトしようとしている、
みたいな妄想。
時代が変わっていくんだな、って。
まだ引退してないけど
「主観的時代の変化=自分との時間的距離が離れること」説
似たような感覚を、
ちょっと前に
すぎやまこういちや鳥山明が
亡くなったときにも感じた。
ボクにとって
時代の変化を感じるのは
長期間好きな作品の作家が
新作を出さなくなるときなのかも。
いや、
別に新作が出なくても、
その作者が亡くなっただけでも
時代の流れは感じるか。
ってことは
森博嗣に倣って抽象化してみると、
外界の更新が止まることで、
進み続ける自分との時間的距離が
離れてしまうことが
時代の変化と認識される
ってことなんだろうな。
「行きもしない店が潰れるときに惜しむ現象」の説明がつく
ここから連想したのが、
碌に行ったこともないくせに
潰れる情報が出たとたんに
それを惜しむ声であふれる現象。
これも同じ理屈な気がする。
この場合は上述の
「新作を更新し続けること」
に対応するのが
「店がそこにあり続けること」
になるんだと思う。
作品は消費するものだから、
新作の更新によって
自分との時間的距離が保たれるけど、
店の場合は
消費(利用)するというより
そこにあり続けているだけで
自分との時間的距離が保たれる。
だから
利用していようがいまいが、
そこに存在していた店が
無くなるだけで
各人の中で「時代の変化」という
ビッグイベントが起きるので、
みんな騒ぐ(惜しむ)んじゃないかな?
知らんけど。
池に投げた石のサイズ∝波紋の規模
更に連想したのが、
個人がネット上で死ぬのは
とっても簡単だよな、っていうこと。
店や作品には
少なからず積み上げてきた
歴史があるから、
消えるときは予兆というか
手続きみたいなものがあって、
それこそ
ウェブニュースになったりするけど、
一部有名人を除いて
ネット上の個人にはそれがほぼ無い。
発信を止めるだけで
すぐに消えることができる。
ああ、なんてことはない。
作品や店の力(存在感)が強ければ
それが無くなるときの影響が大きくて、
弱ければ小さいってだけか。
なんか
思考がぐるぐるしてきたので
ここでおしまい。
以上、
それでは~
堀井さん、ドラクエ12まだですか~?





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