大腸検診の
アレコレが終わって間もなく、
今度は
肝炎ウイルス検診の封筒が届いた。
送り主は病院、
ではなくて役所なのでひとまず安心。
検診結果の異常ではないので
なんか今年は
健康系のアレコレに
振り回されてばっかりな気がする。
そういう年なのかな?
厄年ってやつ?
肝炎ウイルス検診の無料受診券
40歳は無料で受診できる
通知によると、
- 40, 45, 50, 55, 60, 65歳である
- これまで肝炎ウイルス検診を受けたことが無い
を共に満たす場合、
無料で肝炎ウイルス検診を
受けられるとのこと。
受信済みのボクには無関係?
ボクは
すでに人間ドックで
肝炎ウイルス検診を
受けている(はずな)ので↓、
残念ながら
これは意味のない通知。

払い戻しで1,800円戻ってくるかも?
意味のない通知だと
思っていたんだけど、
よく見ると
「すでに受診された方は...」
という記載が。
曰く
すでに別途送った「がん検診受診券」で
肝炎ウイルス検診を受診された方については、
自己負担額1,800円を払い戻しいたします。
とのこと。
ボクは
これに該当する(はずな)ので、
今度役所に行って
払い戻してもらおう。
ちゃんと
目を通しておいてよかった!
厄年について
冒頭でなんとなく
「厄年」という言葉を使ったけど、
「良くない年」くらいの
浅い理解しかしていなかった。
いい機会(?)なので、
ChatGPTに
厄年の説明を依頼してみた。
結論、
「良くない年」という理解のままでよさそう。
曰く、
「厄年(やくどし)」とは、日本の伝統的な風習のひとつで、「災難や不幸に遭いやすい年」とされる年齢のことを指します。迷信的な側面もありますが、今でも多くの人が厄払いなどの行事を通じて意識しています。
とのことで、
該当の年は以下の通り↓。
性別 | 前厄 | 本厄 | 後厄 |
---|---|---|---|
男性 | 24歳 | 25歳 | 26歳 |
男性 | 41歳 | 42歳(大厄) | 43歳 |
男性 | 60歳 | 61歳 | 62歳 |
女性 | 18歳 | 19歳 | 20歳 |
女性 | 32歳 | 33歳(大厄) | 34歳 |
女性 | 36歳 | 37歳 | 38歳 |
なお、
この考えは
平安時代には既に存在していて、
庶民に広がったのは
江戸時代以降とのこと。
統計学なんかない時代
現状ボクには当てはまらない
ちなみに
ボクの厄年(前後)の
ライフイベントを挙げると、
- 24歳:M1→M2
- 25歳:卒業→カナダ滞在
- 26歳:カナダ滞在→入社→研修
って感じで
何も”厄”なことはなかった。
当てはめる上で”数え年”っていうのがまた面倒くさいな
26歳の年に
東日本大震災があったけど、
幸い個人での被害はゼロ。
来年(2026年)から
二回目の前厄→本厄→後厄が
始まるから、
ひょっとしたら次は
“厄”が来るかもしれない。
ワーコワイナー
厄払い(厄除け)について
ChatGPTは
厄年とセットの概念である
厄払いについても
解説してくれた↓。
- 本厄や前厄の年に神社やお寺で「厄払い(厄除け)」の祈祷を受けるのが一般的です。
- 有名なのは川崎大師(神奈川)、佐野厄除け大師(栃木)、成田山(千葉)など。
これを読んで思い出したんだけど、
そういえば
中学校の友達から
前厄イベント準備の案内が
来てたっけなぁ。
厄払いとしての餅投げの風習
その案内によると、
ボクらが
中学生時代を過ごした地域では、
法被を着て町を練り歩いて
神社(寺?)で餅投げをすることが
厄払いになるらしい。
言われてみると、
神社(寺?)に餅投げを
見に行った記憶が
あるようなないような、、、
あれがそうだったのかな?
どうやらそのイベントは
毎年厄年の人たちが主催していて、
今回ボクらに順番が
回ってきた、ということらしい。
で、
聞いてびっくりしたのが
法被代、モチ代諸々で
一人10万円とか払って開催するそう。
さらに言えば、
関係者内に練り歩きで
寄って欲しい場所を聞いて、
本番でその場所に行くと
寄られた側は
ご祝儀を支払う必要があるらしい。
ちょっと
自分で書いてて
意味がわからないんだけど、
練り歩いて来てくれたことに対する
お礼ってことなのかな?
ロジックを妄想①:「厄を払う」軸
あ、わかったかも。
「練り歩き=厄を吸い取る」
って考えれば、
「練り歩き中にわざわざ立ち寄って
厄を吸い取ってもらう代わりにお金を渡す」
っていうロジックが成り立つ気がする。
でも
もしそうだとしたら、
餅投げにはどんな意味が?
街を練り歩いて
厄を吸い取った集団が、
餅と一緒に吸い取った厄を
ばら撒くことにならない?
いや、
餅はばら撒くんだから、
どこかで
厄を福に代えるロジックがありそう。
あ!
だからこその神社(寺?)なのか。
つまり
街を練り歩いて厄を吸い取る
↓
神社(寺?)で、集めた厄を浄化?する
↓
浄化された厄(=福)の象徴として、餅をばら撒く
ってこと?
これで納得しちゃったから
もういいや。
実際がどうであれ、
ボクの感覚では
誰得のあり得ないイベントなので、
不参加を表明済みだし。
ロジックを妄想②:「権力の誇示/関係者アピール」軸
厄払いイベントの意味について、
上記は文字通りの「厄払い」
っていう軸で妄想したけど、
別の軸として
「村の中での権力の誇示/関係者アピール」
っていう側面もありそう。
むしろ大人の間では
こっちがメインな気もする。
「厄払い」軸は、
イベント実行の際に
子供の無邪気さを利用するためとか、
子供にドロドロの大人の事情を
隠すためのカモフラージュのためとか
そんな感じで
後付けされたんじゃないかな?
あーイヤだイヤだ。
※全部ボクの妄想
ちなみに
以上の妄想をChatGPTが
まとめてくれたのがこれ↓。
要素 | 実質的な目的 | 表向きの説明 |
---|---|---|
練り歩き | 権力構造・仲間意識の可視化 | 厄を祓う巡礼 |
餅まき | 財力・影響力の誇示 | 福をまく行為 |
子供の参加 | イベントの“無害化”・感情的正当化 | 地域に愛される伝統行事 |
うん、わかりやすい。
土着の意識の有無
妄想を切り上げて話を戻す。
妄想内容の真偽は置いておいて、
練り歩きと餅投げという
厄払いイベントがあったのは事実。
つまり、
中学生の頃は
思いもしなかったんだけど、
ボクが当時住んでた地域は
がっつり田舎のムラ社会だった
ということ。
この事実に今驚愕している。
厄年イベント準備の
グループチャットを見ていると、
そのイベントを
やることが前提になっていて、
「なぜそのイベントを開催するのか?」
に対する疑問は
これっぽっちも抱いていないみたいだった。
少なくとも誰も言い出さない
数年間同じ場所で
同じ時間を過ごした仲間と言っても、
「生まれた頃からそこに住んでいる」のと
「人生の一部をそこで過ごした」のとでは
土着の精神?が全く違うんだな、と
興味深かった。
ボクが
そういった土着の精神?
ムラ社会的?なことを
意識せずに過ごせた理由は、
たぶん親が転勤族で
そこに住んだ期間が短かったから。
転校はしんどかったけど、
地域に染まらずにすんだ点では
親に感謝、なのかな?
いや、
もし染まっていたら
疑問すら抱かないだろうから、
別になんでもないのか。
不幸なのは
疑問を抱きつつも
参加せざるを得ないパターンか。
そういう人が少ないことを遠き地から祈っています
そういう意味では
自分が不幸にならないためにも、
ボクは不参加を表明して
正解だったってことになるな。
共同体の重要性が薄れ、濁っていく?
この厄払いイベント、
発祥当時は
上述の妄想のように、
ムラ社会内で
「村の一員として認めますよ」的な
重要な儀式だったと思うんだけど、
今となっては
いわゆる形だけの伝統になって、
「金を払って消化する通過儀礼」
「地域の利権の維持」
以外の意味はもうないんじゃないかな?
“つながり”が機能しなくなった社会で
“つながりの形式”だけが残ったとき、
そこに生まれるのは利権と義務感だけ
みたいな。
あ、でも
参加者の間では
まだ”つながり”が機能し続けている
っていう可能性があるのか。
あくまでも↑は
“つながり”が機能していない
ボクの感想ってこと。
濁りの原因は、たぶん資本主義
“つながり”が機能しなくなったのは
共同体のアレコレを金で解決できる
資本主義が各地に浸透したからで、
ボクは転勤族の家の子だったから
その浸透が
先祖代々その地で暮らしてる人たちよりも
早かったってことなんだろうな。
これがよく言われる
(というか最近本で良く読む)
資本主義によって失われた共同体
ってやつなのかも。
その一方で、
相変わらずヒトの
幸せな人生に必要なもの(の一部)が
「人との関わり、共同体への参加」
って言うんだから、
人間って難しい。。。
これも
環境の変化にヒトの本能が追いつけない
案件のひとつなんだろうなぁ。。。
以上、
それでは~
記事の内容とはズレるけど、”共同体”と言えばボクの中ではこの本↓。本書の提言の実現可能性は著しく低いと思うけど、おもしろい。
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