一人暮らしの管理人の
出費の記録と、
それに伴う日記みたいなもの。
【出費】業スー【1,883円】

商品名 | 価格(円) | 分類 |
---|---|---|
IQF菜の花 | 228 | 主菜 |
冷凍ほうれん草5 | 218 | 主菜 |
ホリ乳業ヘルシーす | 98 | 常備 |
ブロッコリー50 | 208 | 主菜 |
冷凍パプリカ50 | 238 | 主菜 |
にんにくの芽50 | 268 | 主菜 |
冷凍しいたけ(スラ | 238 | 主菜 |
バルト海いわし5 | 248 | 主菜 |
合計(含消費税&割引) | 1,883 |
いつもの。
同製品でも新しいだけで気分がいい
今日が
新しい自転車のカゴのデビュー戦。
とてもいい感じだった。
いや、
以前使ってたのと同じやつだから
当たり前っちゃ当たり前なんだけど、
それでも
ほつれが無かったり
折り畳みが綺麗にできたりするので
とても気分がいい。
ホームベーカリー買い替えの誘惑
全く同じ製品でも
新品と交換すると気分がいいってことは、
今使っている
10年ものの中古で買った
ホームベーカリーも
買い換えたら気分良くなるかな?
家電で10年って言ったら
技術の進化が凄いから、
もっと美味しく焼きあがったり?
でもホームベーカリーって
そんな技術必要かな?
混ぜて加熱するだけだし、
ホームセンターで
最上位種を見たことがあるけど、
基本構造はウチのと変わってないっぽいし。
うーん、迷うな~
本の信憑性、というか納得感について
今ボクの脳内に
とある人物が思い浮かんでいて、
その人はいわゆる
論文キュレーターなんだけど、
ボクは彼の本の内容に対して
なぜかぺらっぺらだと感じてしまう。
論文の情報とは言え、
彼の口から出た/紙に書いた内容は
ボクにとって納得感が無い。
なんでだろう?
この「納得感」について考えてみた。
参考文献があっても納得できないこと、あるよね
論文のキュレーション本って
テーマに沿った論文の結果が
まとめられているから
すごく便利なんだけど、
それに説得力があるかというと、
ボクはそんなことないと思う。
たとえば
論文の一節だけをポンと出して
「〇〇によれば、こういうことです」
とか言われても、
無機質と言うか
実感が備わっていないというか、
「本当にその論文理解した上で言ってるの?」
って思ってしまう。
そういう意味では
「誰が言っているか」が
効いてきちゃう、というか。
体験に基づく医者と、論文根拠の素人、どっちに納得できる?
一例として、
医者が自身の専門分野の内容を
発信している論文キュレーターの
動画に対して
「試験管実験の内容を
勝手に人体に適用していて滑稽」
みたいなことを言ってる動画を
見たことがある。
この場合、
ボクはキュレーターの発信内容より
医者の発言を信じる。
なぜなら医者の発言の方が
自身の体験に基づいているから。
余談:そもそも論文って
そもそも
学会における論文引用って、
「引用論文の結果を前提にして
改善なり拡張なり反論なりするもの」
だとボクは思っている。
つまり本来は
引用が目的じゃなくて、
その先に何を言うかが大事ってことかと。
そう考えるからこそ、
「この論文によればこういうことです」
で完結してしまっている
(変換効率の低い)通訳みたいな
本には説得力を感じないんだろうな。
自分の言葉になっていれば、納得できる。できてしまう。
つまり
ボクが納得感を抱くのは、
相手が「自分の言葉」で語っているとき。
だから
たとえ論文ベースの
キュレーション本でも、
その人自身の体験とか視点が
混ざっていれば全然納得できる。
冒頭でボクが思い浮かべた
キュレーターは、
論文を読むことに時間を使いすぎて、
(ボクにとっての)納得感を出すための
体験とか視点が不足しているのかな、
なんて妄想。
結局
信頼の根拠は、
「誰かの論文」かどうかじゃなくて、
「自身がどう考えたか」が見えるかどうか
なんだと思う。
だからこそ、断定系発信者が人気になってしまうという問題
いつも同じ話題に
収束してしまうんだけど、
危険なのは、
真偽不明なことを堂々と
自分の言葉で発信している人たち。
「正確性を欠くレベルで
簡略化した話を
断定口調で堂々と発信する動画」が
再生数を稼ぐことができるのは
もはや周知の事実。
「断定口調で堂々と発信」
っていうのは上述の通り
納得感を与えるのに十分だから、
その発信内容に関する知識が
全くない状態で聞けば、
普通に騙されてしまう。
自分が騙されないかどうかも
気になるけど、
それよりも高齢者の親が
騙されないかが心配でならない。
こう考えると
冒頭のキュレーターは
ボクからすれば
納得感が無いからある意味安全で
可愛いもんなんだな(笑)
以上、
それでは~
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