動画とか見てると
やたらめったら「おすすめ」されません?
対面で(レストランとかで)
「おすすめを聞く」
「聞かれたからおすすめを答える」
っていうのは全然ありだけど、
動画等で画面内から知らない人に
「一方的におすすめされる」
っていうのに違和感を覚えたので、
その辺について考えてみた次第。
※本記事の内容は
ボクの観察に基づく偏見です。
無責任におすすめを連呼する発信者に疑問
発信者が
あるモノやコトについて
不特定多数に対して
不用意におすすめおすすめと
連呼するのはいかがなものかと思う。
例えばよくある話題で
「持ち家と借家、どっちが良い?」
という(発信者が取り上げた)
疑問に対して
どちらかを
「(万人に)おすすめ」と
言い切る行為に
ボクは「無責任では?」疑問を抱く。
と同時にその胆力は凄いと思う。
一方で
同じ不特定多数に対する
無責任発言でも、
テレビや雑誌の占いには
「無責任では?」とは思わない。
この違いについて考えてみた。
以下、便宜上
「無責任に感じる発信」を
「インフルエンサーのおすすめ」、
「無責任に感じない発信」を
「テレビの星座占い」
として話を進める。
「テレビの星座占い」と「インフルエンサーのおすすめ」の違い
テレビの星座占い
星座占いは「運勢を保証しない(=無責任)」と割り切っている
ボクが星座占いに対して
無責任だとに感じないのは
「不特定多数に伝えてるから責任が薄まる」
という理屈でなんとなく納得できる。
1対1で30分5000円の占いと
不特定多数に対して無料の星座占いを
同列に考える人は少ないのでは?
そう考えると星座占いは
発信者に責任感は不要であると言える。
なぜなら
不特定多数にばら撒いている情報は
責任を取らなくてもいい情報だから。
これは星座占いの主目的が
「番組を見させる」
「チャンネルを変えさせない」
といった点にあり、
決して
「聞いた相手の運勢を保証する」
ことではないから成り立つのだと思う。
受け手も「自分の運勢が保証されない」ことを理解している
星座占いの場合、
「星座占いは自分の運勢を保証していない」
ことを
受け手もなんとなくわかっている。
もしわかってなかったとしても、
実害がない。
少なくともボクの知る限り、
星座占いが外れて
真剣にクレームを言った人や
実害を被った人はいない。
つまり星座占いは
「結果がどうあれ受け手に害のないネタ」
だから責任を取る必要なんかない
ということ。
インフルエンサーのおすすめ
インフルエンサーは責任には触れずにひたすら「おすすめ」する
おすすめの「行為」に対しては
「自己責任で」という一言が
よく見られるけど、
おすすめの「もの」に対しては
そういった発言が一切見られない。
この時点でもう無責任感が漂うんだけど、
更にボクがおすすめを
無責任だと感じる理由のひとつが
「一方的にウソ(とも取れる内容)を
発信している」から。
インフルエンサーも
星座占いと同様、
「モノや行為をおすすめすること」
それ自体を主目的とはしていない(はず)。
おそらくは
「自分の収入や評判を上げること」が
主目的だと思われる。
ここで星座占いとの違いが出てくる。
星座占いは上述の通り
「当たろうが外れようが無害」な情報発信
であっても目的は達成されるのに対して、
インフルエンサーは
おすすめしたモノやコトが
「当たろうが外れようが無害」では
「自分の収入や評判を上げること」という
目的が達成できない。
なぜならそんな発信内容は
誰も見てくれないから。
目的達成のためには
受け手をファンにさせるエンタメ性や、
受け手におすすめしたモノやコトを
買ってもらう販売力が必要になる。
だから「言い切る」形でおすすめする。
「言い切る」という行為は
0か100かを宣言してしまうこと。
でも世の中の大抵のことは
0か100かではなく、
0~100の間のどこかにある。
ただ、
そのことを正確に伝えようとすると
どうしても政治家発言になって
エンタメとして面白くない。
だから正確性を犠牲にしてでも
自分の収入や評判の向上のために
彼ら/彼女らは「言い切る」。
0~100の範囲があるのに
両極の0か100かの話をしていれば、
当然現実と発言内容に齟齬が生じる。
なのでこの場合の「言い切る」行為は
ある意味「ウソをつく」ということになる。
要するに
ボクがインフルエンサーのおすすめに
疑問も持つのは、
「相手の状況を一切考慮せずに
自分の理屈(都合)だけで軽薄に
おすすめしている」
よう見えるから。
余談:「言い切る」とストレスが生じるのは「嘘」だから?
以前読んだ広告系の文章術の本には、
「言い切ることによるストレスに
耐えられない人は広告業に向かない」
といったことが書かれていた。
つまり
少なくともこの本の著者は
広告=言い切ること=ストレスが生じること
と認識しているということ。
どうして言い切ることで
ストレスが生じるのか?まで
書いてあったかどうかは覚えてないけど、
その理由は上述の通り
ウソ(とも取れる発言)を不特定多数に
発信するためなんじゃないかな。
なので
広告業の人はある意味
商品を買ってもらうために
自覚的に嘘をついているということを
この本から学んだ。
あーコワイコワイ。
本のタイトルは忘れたけど、
たしか猫が表紙の本だったと記憶している。
受け手が何も考えていないと「騙され損する」ことが起こり得る
先ほど0~100という言葉を使ったけど、
自分の立ち位置が0の人にとって、
100の人に対する「おすすめ」は
「ウソ」になる。
例えば転勤族で
しょっちゅう引っ越している人からしたら
「持ち家 or 賃貸、おすすめは持ち家」
と言われてもそれは「ウソ」になる。
こんな感じで自分の立ち位置を
把握できていれば、
「おすすめ情報」に対して
「これは自分には当てはまらない(=ウソ)」
と判断できるんだけど、
自分の立ち位置がわからない人は
100の「おすすめ」を聞くことによって
なぜか自分の立ち位置が100だと誤解し、
「言い切り」発言を鵜呑みにして
被害を被ることがある。
さっきの例だと
「自分は転勤族なのに
インフルエンサーが
持ち家がおすすめと言ってたから
持ち家を買ったんだけど、
転勤で引っ越さなきゃいけない。
ローンはまだまだ払わなきゃいけないのに」
みたいな感じ。
星座占いとは異なり、
発信者が何の気なしに発信した
「おすすめ」が
受け手に被害を与える可能性がある
ということを発信者は認識してるのかな?
鵜呑みにすると損する情報っていうのは
世の中に溢れかえっているから、
結局は
「自分のことは自分で考えて決めろ」
ということで、
無責任なおすすめをする側は
別に悪くなくて
受け手に原因があるっていうのは
それは確かにその通りなんだけど、
なんかもっとこう、ねぇ?
両者を比較してみる
ここまで考えたことを整理してみる。
共通点
両者の共通点は
「不特定多数を対象とした
一方通行な情報発信で
相手の事情を一切考慮しておらず、
内容に責任は取らない」点。
アイドル@ライブ会場
「2階席も見えてるよ~!(見えてない)」
みたいな感じ(知らんけど)。
相違点
両者の違いは
「発信内容を信じて
行動した時の損害の有無」。
テレビの星座占いを信じて
大損する人はいない(はずだ)けど、
インフルエンサーのおすすめで
大損する人はいる(仮想通貨とか)。
結局は「言葉の重み」の捉え方しだい
ここまで書いてきて思ったのは、
ボクが「おすすめ」という言葉を
重く捉えているだけなのかもしれない、
ということ。
「おすすめ」=「好き/お気に入り」
くらいの軽さでとらえていれば
上述のすべてが
「何言ってんだコイツ」
で片付く。
でもこういった
言葉の重みの捉え方っていうのは
人それぞれ。
流石に
「おはようございます」とか
「失礼します」とか
「お疲れ様です」とか
「頑張ってね」に対して
「早くねーよ」とか
「失礼なことなら止めて」とか
「疲れてねーよ」とか
「既に頑張ってるよ」って
怒り出す人はいないと思うけど、
不特定多数に一方的にモノを
おすすめするときくらいは
フェールセーフの考えというか、
誤解した時に被害が少なくなる表現
をするくらいのマナー?モラル?が
あってもいいんじゃないかな~
と思ってしまうのでした。
余談:似た言葉に「要約」「美味しい」がある
ボクの中で、
今回の「おすすめ」と似たような言葉に
「要約」「美味しい」がある。
どちらの言葉も「おすすめ」同様、
ボクは重く捉えてしまっている。
例えば
「要約」は作者以外は
本来できないものであり、
その他の人間(AI含む)が行った
「自称要約」は作者の意図と異なる
ノイズがたくさん入るので
それはもう要約ではないと思っているし、
「美味しい」は感動するレベルの
食べ物に対してのみ
使う言葉だと思っている。
なので、
本の要約を見ただけで
その本を読んだ気になって
原本を読まないという人に対しては
なんだかなぁと思うし、
何を食べても
「美味しい」しか言わない人に対しては
「美味しい」のハードル低すぎだろ
って思う。
当然これらはボクが勝手に
思っているだけで
他人がこれらの言葉をどう使おうが
その人の自由。
ボクがむやみに
それらの言葉を使わないというだけ。
ただ、
「おすすめ」については
その言葉の特性上他人の行動に
影響を与える言葉なので、
もう少し繊細に扱ってもいいのでは?
と思ってしまう。
ちなみにボクは
「おすすめ」「要約」についてはそれぞれ
「〇〇な人にはいいかもしれない」
「ボクなりのまとめ」
と言った感じの言葉を使っている。
ただ、
「美味しい」については
良い感じの置換ワードが見つからないため、
食事時のコミュニケーションを
円滑にするためにも
発言した方が良いと判断し、
観念して自分を矯正した結果、
それなりに雑に「美味しい」と
言えるようになった(と思っている)。
それでもやっぱり皆「美味しい」を
雑に使い過ぎてる気がする。
「美味しい」が乱用されるのは
美味しさの種類と程度を示す言葉が
そもそも少ないことが原因なのかな?
発信者よ、モラルを持て!視聴者よ、考えろ!
話を「おすすめ」に戻すと、
ボクがこの記事で
ダラダラと書いてきたことを
簡潔に書くと
「発信者よ、モラルを持て!」
「視聴者よ、考えろ!」
ということになるかと。
発信者は
一方通行のおすすめだからこそ、
考えず鵜呑みにする
受け手がいることも考慮して
発信するべきだし、
(考えない受け手をいい鴨だと思うべきではない)
受け手は
自分の立ち位置を把握した上で
発信者の発言内容は
ただの参考程度にして自分で考える
と同時に
発信者は自分の利益のために
発信していることを理解しておくべき
ではないでしょうか。
「度を越すな」ということ
発信者が現実を正確に伝えずに
「言い切る」のって、
迷惑ユーチューバーが
迷惑行為に飽き足らずに
「軽犯罪行為に走る」のと
ベクトルは違えど
「集客のために度を越す」
という意味では同じだと思う。
時事ネタだと「Wi-Fiは肌へ悪影響」も正にこの一例では?
迷惑ユーチューバーの迷惑行為は
逮捕されたら終わる?けど、
インフルエンサーのおすすめは
実害が発生したとしても
「信じたお前が悪い」案件になるので
終わらない。
終わるのは
「だました方が悪い」の
詐欺レベルに達したとき、
あるいは
そのインフルエンサーの人気が
無くなったとき(自然消滅)。
グレーゾーンで延々と
一方的なおすすめをし続ける
っていうのはなかなか厄介なのでは。
といったところで
考察?を締めようと思います。
それでは~
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